物語が残す、可能性の種子
更新日:9月15日
── 心にそっと置かれるもの
(道場のすみっこから # 30)
【2026年6月10日の記録】

子どもたちに伝えたいことは、
その場では届かないことのほうが多いものです。
何度話しても伝わらない。
大切なことを話しているつもりでも、
子どもたちには退屈な話に聞こえることもあります。
しかし、物語は静かに残り続けます。
指導者よりも長く、時代を越えて。
そのときには分からなくても、心のどこかに残っていれば、
何年も後になって、ふと思い出すことがあります。
今回、紙芝居を手に取ったのは、そんな記憶を、子どもたちの心にそっと置いておきたいと思ったからです。
■ 紙芝居との出会い
スポーツ教室の準備を進める中で、
技や運動だけではなく、もう少し根っこの部分で育てたいものがあると感じていました。
そこで、そのヒントを探しに図書館へ向かいました。
棚に並ぶ紙芝居の中から、一枚の挿絵がふっと目に留まりました。
色は控えめでしたが、そこにはどこか深い物語の気配がありました。
手に取って読んでみると、そこに描かれていたのは、
親の深い愛情と、年長者の知恵。
そして、簡単には解決できないことに対して、
知恵を働かせながら道を切り開いていく人の姿でした。
子どもたちに伝える題材として、これはいいかもしれない。
そう思いました。
■ 武道の学びと、年長者の言葉
武道は、技だけを学ぶものではありません。
まず先生の話を静かに聞く。
相手の言葉に耳を傾ける。
自分の知らないことを、謙虚に受け止める。
そうしたところから、修行が始まります。
技の習得においても同じです。
経験を積んだ人の説明には、言葉として表に出ていることだけではなく、
その奥に長い経験があります。
同じ技を教わっても、最初は何を言われているのか分からない。
けれど、何年か修行を続けてから、
「ああ、あのとき先生が言っていたのは、このことだったのか」
と気づく。
武道には、そんな学びがあります。
だから私は、子どもたちにも「大人の話を聞く」という経験を、
できるだけ残しておきたいと思っています。
すぐに理解してもらう必要はありません。
聞いたことが、心のどこかに残っていればいい。
■ 親心という、静かな光
紙芝居の中には、
自分を山に捨てに行く息子が、帰り道に迷わないように、
親が木の枝に印を付けていく――という場面があります。
親は、自分が捨てられることを知りながら、
最後まで子どものことを考えている。
子どもには、その親心がすぐには分かりません。
けれど、いつか自分が親になったとき、
「あのときの親は、こういう気持ちだったのか」
と気づきます。
これはまさに、吉田松陰の歌にある
「親思う心に勝る親心」
そのものです。
■ 不可能に見えることに挑むということ
この紙芝居には、
親の愛情や年長者の知恵だけでなく、
一見不可能に見えることにも、知恵を働かせながら挑んでいく姿
が静かに描かれていました。
武道の修行も同じです。
自分より大きな相手、強い相手に向き合うとき、
ただ退くのではなく、
「どこかに活路があるはずだ」
と視点を変え、工夫し、挑戦していく心が求められます。
それは、力だけではなく、
心の柔らかさや発想の転換によって
状況を動かしていくということでもあります。
■ なぜ武道教室で「紙芝居」をするのか
武道の理念は、子どもたちにはすぐには伝わりません。
何度も繰り返し、
話し方を変え、
話し手を変え、
状況を変え、
言い回しを変え、
それでも伝わらないことのほうが多いものです。
けれど、
その時期が来たときに、ふっと腑に落ちる瞬間がある。
「ああ、先生が言っていたのはこのことか。」
「親父が言っていたのは、こういう意味だったのか。」
教えというものは、時を経てから意味を持つことがあると、
自分の経験から感じています。
もしそのとき、
「あの紙芝居……うばすて、なんとかだったかな」
と、物語の断片だけでも思い出してくれればいい。
その記憶が手がかりとなって、
その時の指導者が何を伝えようとしていたのかが、
その子の中で静かに形を成す。
それこそが、
武道における『可能性の種子』を植えるという営み
なのだと思います。
■ 少林寺拳法は“人を育てる武道”です
少林寺拳法は、技術だけでなく「人としての成長」を大切にしています。
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