「挑む」
- sandaminami-doin
- 3 時間前
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(道場のすみっこから # 24)
【2026年3月23日の記録】
大人になってから、
「挑む」という言葉を、どれだけ自分の中で扱ってきただろうか。
そんなことを、ふと考える夜がある。

武道の世界には、試合のあるものが多い。
柔道、剣道、空手。
勝てる保証なんて、どこにもない。
どれだけ練習しても、負けるときは負ける。
それでも、挑む。
初心の頃は、相手が誰であれ、震えるような気持ちで立ち向かっていった。
勝てそうにない相手にも、逃げずに向かっていった。
あの頃の自分は、ただただ必死だった。
挑む姿というのは、勝ち負けとは別のところにある。
あの一歩を踏み出す瞬間の、あの気持ち。
あれは、年齢を重ねても、どこかに残っている。
仕事の世界になると、少し事情が変わる。
できない理由を探すのは簡単だ。
リスクを避けるのも簡単だ。
「これは自分の仕事ではない」と言ってしまえば、それで終わる。
でも、挑む人は違う。
失敗するかもしれない。
笑われるかもしれない。
それでも、できる限りの準備をして、
知識を集め、協力を求め、練習し、集中して、やってみる。
たとえ失敗したとしても、
「あいつが失敗するなら、誰がやっても失敗しただろう」
そう言われるくらいのところまでやる。
そこまでやった自分は、必ず残る。
挑むというのは、
本来、自分で“土俵”をつくるところから始まる。
練習も、日々の通いも、手続きも、環境づくりも、
誰かが代わりにやってくれるものではない。
ボクシングでいえば、試合に挑む前の“減量”のようなものだ。
周囲が手伝うことはできても、最後は自分でやるしかない。
そこを越えられない限り、リングには上がれない。
挑む姿は、周囲を動かす。
真剣に取り組む人のまわりには、
不思議と援助が集まることがある。
状況が好転することもある。
奇跡のようなことが起きることもある。
そして何より、
挑んだ経験が、人を変える。
結果ではなく、
うまくいったかどうかでもなく、
「逃げなかった」という事実だけが、
次の一歩を支える力になる。
挑むというのは、年齢とは関係がない。
いくつになっても、挑む人は挑む。
挑む姿勢そのものが、人を育て、人を動かす力を持っている。



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