鬼と仏の同居
(道場のすみっこから # 43)
【2026年11月5日の記録】
ある日のこと。
親御さんのひとりと、子どもの「大会」の話をしていた。
その言葉を聞きながら、ふと、昔の記憶が静かに蘇ってきた。
若い頃、他の武道で大会に出場していた時期がある。
あの頃の稽古の空気や、道場の匂いのようなものが、
ゆっくりと胸の奥に戻ってきた。
大会に出場する、と決まった瞬間から、
稽古の質はがらりと変わる。
自分で手を上げることもあれば、推薦されることもある。
しかし、当時はほとんどが「指名」に近い形だった。
名前を呼ばれたその瞬間に、
覚悟を求められるような時代だった。
ある先生に、こう言われたことがある。
「大会に出場するということは、自分で手を上げたのだろう。それなりの覚悟を持て。」
その言葉は、今でも静かに残っている。
日程を見直し、生活を見直し、仕事との両立をどう図るかを考える。
稽古に使える時間を最大限に確保し、回数、強度、質を根本から見直す。
心構えというか、精神的なものまで変わっていく。
それまで気さくで優しかった先生が、その時期だけは鬼になる。
相棒やチームの雰囲気も一変する。
声を掛け合い、気合いを出し、特別練習に臨む。
特にきついのが、最初の一週間だ。
身体も心も「ぬるま湯モード」から「本気モード」へと力ずくで切り替える。
準備運動の時点で、腹筋、背筋、スクワット、腕立て伏せの連続。
本来の稽古に入る前に、早くも限界がやってくる。
道場の床に仰向けになり、天井を見つめながら心の中で呟く。
(このままゆっくりできたらいいなぁ。今日もきついだろうなぁ……)
しかし、「立てぃ!」の号令一発で、そんな甘えはどこかへ吹き飛んだ。
試合で結果を残すこと、ゼッケンを背負って恥ずかしくない姿を見せること。
理不尽に思える厳しさをグッとこらえることも、当時は当然の覚悟だった。
「勝つ」ということ、あるいは「一段上のレベルを求める」ということには、こうした厳しい側面が必ずついてまわる。
今の時代にはそぐわないのかもしれないし、このような稽古を求めて汗を流す人は、今やごく一部なのかもしれない。

それでも、あの頃の記憶は優しく残っている。
鬼になりきれない先生の本心が、
ふと漏れたあの一言とともに。
「おい、腕の内出血、大丈夫か」
「えっ、はい、大丈夫です」
「そうか。明日までには動けるようにしてこい。」
厳しさの奥にある、静かな心配と温もり。
鬼と仏が同居していた、あの道場の空気を
今でも時折、思い出すことがある。



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